イヌ・4
-4-
余り眠れない夜を過ごし、夏樹は少々浮腫んだ顔で学校へ行った。
教室に入ると、先に来ていた友達に挨拶をして席に着いたが、隆哉と小高はまだ来ていなかった。
だが、5分もしない内に、楽しげに話しをしながら2人が入って来た。
「あー、マジ、シャワー浴びれないのはキッついなぁ…」
「仕方ないよ。朝練やってるの剣道部だけじゃ無いし、他の部もみんなでシャワー室使ったら授業始まるまでに間に合わないし」
隆哉に言われて、小高は真っ赤に上気した顔をパタパタとタオルで仰ぎながら頷いた。
「明日から、タオルを余計に持ってこよ。そしたら、外の水道で水浴びれるし」
「ええ?あんな所で水浴びする気か?大胆だなぁ、基って…」
そう言って隆哉は楽しげに笑った。
いつもの隆哉だったら、真っ先に夏樹の所へ来てくれる。なのに、今日はまるで、夏樹が居る事に気付いていないかのようだった。
だが、自分から傍に行くのは何となく気が引けて、夏樹は迷っていた。
すると、先に気付いて声を掛けてくれたのは、隆哉ではなく小高だった。
「あ、おはよっ。夏樹…」
元気に声を掛けられ、夏樹は必死で普通を装うと笑みを作った。
「お、おはよ…。朝練、どうだった?」
「うん。今日はまあ、慣らし程度だったから…。でも、主将の市川さんがスゲえカッコ良くて見惚れたぁ。あと、副将の吉岡さん?ビビるぐらい綺麗だったよ。あんな人、居るんだなぁ…。美少年て、あの人のコトだよな」
「あ、うん…、ホントに綺麗だよな。吉岡さん…」
「うん、おまけに強いしさぁ。身長小さいけど、俺も頑張ればああいう風になれるかなって、ちょっと希望が湧いたよ」
夏樹が答えようとすると、それより先に隆哉が口を出した。
「なれるよ。基だって、小さいけど目が良いし、踏み込みもいいし、凄いよ」
「そうかな…?へへ…、リキにそう言われると嬉しいよ」
そう言って、小高は自分の席に歩いて行った。途中で、また他の友達と親しげに会話をしている。本当に、誰にでも拘りなく接する性格らしかった。
「おはよう、夏樹…」
やっと、隆哉が声を掛けてくれた。
顔を上げると、夏樹は笑みを見せた。
「おはよ…」
たった1日で、もう自分は“2番目”になってしまったのだろうか。余りの悲しさに、夏樹は今にも泣き出しそうだった。
だが、まさか教室で泣く訳にはいかない。
何より、小高の居る場所で泣くなんて、絶対に嫌だった。
「なんか、顔色悪くないか?大丈夫…?」
寝不足で浮腫んだ顔に気づいたのだろう。隆哉が心配そうな顔をして言った。
「ううん、大丈夫。別に何でも無いよ」
「そう?なら、いいけど…。あの…、夏樹、昨日は…」
隆哉が言い掛けた時、前の扉が開いて担任教師が入って来た。
「ごめん。後で…」
そう言って、隆哉は自分の席に着いた。
気になったが、先生が来てしまっては話を続ける訳にはいかない。夏樹も諦めて視線を前に戻した。
夏樹の斜め前に、小高の背中があった。
髪の毛が汗で項に張り付いている。だが、そんな状態でも小高に不潔っぽさは微塵も無かった。
自分がもし、あんな風に汗だくになっていたなら、汚いと言って女子が顔を顰めるだろう。でも、小高なら誰もそんな風には言わないし、思わないに違いない。
そして、隆哉も多分、そうなのだろうと思う。
今までは違ったかも知れない。
いや、今までは、勿論隆哉が自分を“汚い”などと言ったことも無いし、そして、思った事も無かったのだろう。
だが、小高と比べたらどうだろうか。
小高と比べたら、きっと気付くに違い無い。自分の醜さを、隆哉はきっと気付いたのだと夏樹は思った。
誰にも気付かれぬようにそっと溜め息をつき、夏樹は自分の拳を握り締めるとその節を噛んだ。
まだ、隆哉に何も言われた訳でも無いのに、こうしてどんどん悪い方へと考えてしまうのは、余りに気弱過ぎるだろうと自分でも思う。
ただ、隆哉はいつもの優しさから、転入生の世話を焼いているに過ぎないのだ。同じ部に入った彼を、クラスメートとして面倒見ているだけなのだ。
昨日、帰ってしまったのも何か訳があるのだろう。きっと後で聞いたら、自分が気にするような理由ではないのだ。
きっと、何でも無いことなのだ。
(そうだよ。リキは何にも言ってない。ただ、俺が、馬鹿みたいに気を回して、勝手に悩んでるだけじゃないか…)
もう、止めようと夏樹は思った。
隆哉を信じて、おかしな事を考えるのは止めるのだ。
顔を上げて、夏樹はもう一度小高の背中を見た。
小高だって、偶然同じクラスにいた剣道部員だったから隆哉を頼っただけで、そこに恋愛感情があった訳でも無い。
隆哉は確かに異性に興味は持たないが、だからと言って小高もそうだとは限らないのだ。いや、普通に考えたらその方があり得ない。
きっと小高は、普通に女の子との恋愛を望むに違いない。幾ら体が小さくて、そして女の子のように可愛いからと言っても、小高だって歴とした男なのだ。
だったら、何も余計な気を回す必要などないではないか。
きっと、すぐに分かる。自分の考えが、馬鹿馬鹿しいと、きっとすぐに分かるに違いない。そう思って、夏樹は自分を哂うと、小高の背中から視線を外した。
昼休みは、他の数人の友達と小高も混じって一緒に昼食を取ると、その後、グランドでサッカーをして遊んだ。
隆哉は、夏樹の見る限り、他の友達に接するのと変わらない態度で小高にも接していた。
そして、小高の方でも特別に隆哉を意識している様子はなかった。
やはり、愚かな自分の取り越し苦労だったのだろう。そう思って、夏樹は少しホッとした
。
だが、放課後になり、小高と隆哉が連れ立って部活に行こうとすると、自分から離れて行く2人の後ろ姿を見て、夏樹はまた激しい疎外感に襲われた。
「リ、リキッ…」
思わず呼び止めてしまい、夏樹はすぐに後悔した。呼び止めた理由が何も思いつかなかったからだ。
「なに?夏樹…」
怪訝そうな顔で振り返った隆哉に掛ける言葉が見つからなくて、夏樹は口篭った。
必死で頭を巡らせて、何か理由を探す。
「あ、あの…ッ、リキ、俺になんか話があるみたいだったけど…」
やっと、今朝の事を思い出し、夏樹は言った。
「あ…、うん」
夏樹の言葉に、隆哉の表情が曇った。
それを見て、夏樹はまた急に不安になった。やはり、話というのは自分にとって余り良くないことだったのだろうか。
「あの…、なんなら、俺、部活終わるの待ってようか…?」
怖かったが、それ以上に気になって夏樹はそう言った。
だが、隆哉はすぐに首を振った。
「いや…。悪いけど、今日は部活の後で基と約束してるから…」
「え…?」
自分の知らない所で、何時の間にそんな約束をしたのだろうか。
夏樹は絶句したまま、隆哉の顔をただ見つめた。
すると、隆哉はまるで後ろめたさを隠すように、夏樹から目を逸らした。
「ごめん。後で、電話するよ。…じゃ」
軽く手を上げて、隆哉は小高と一緒に出て行った。
自分と話をするより、隆哉は小高との約束を取ったのだ。
その事実に、夏樹は呆然と立ち竦んだ。
その夜、待っていたが隆哉からの電話は無かった。
いつも、電話は無くても必ずメールをくれる。それなのに、幾ら待ってもそれさえも来なかった。
基と約束している、と隆哉は言った。それは一体、どんな約束だろうか。
ただ単に、部活の後で何処かへ寄って何か食べようとか、そんな約束だろうとは思う。
運動部の生徒はみんな部活の後では腹が減る。隆哉たちだって、友達同士で何か食べに行ったり買い食いしたりしている事は夏樹だって知っていた。
だが、それなら待っていると言った自分を誘ってくれたっていい筈だった。
現に、部活が終わるのを待っていた夏樹を連れて、剣道部の仲間と一緒にラーメンを食べに行った事だってあったのだ。
誘ってくれなかったのは、夏樹が邪魔だったということだろう。
でも、その事を考えるのはやめようと夏樹は思った。
考えたからと言って、事実が分かる訳でも、隆哉の本心が分かる訳でもないからだった。
「おはよう。今日は朝練あるのか?」
夏樹は、起きてすぐに隆哉にメールを打った。昨夜、何故電話をくれなかったのか訊きたかったが、それには触れなかった。
だが、今朝は自分の所へ寄って行ってくれるのか、それだけはどうしても知りたかったのだ。
「おはよう。昨日はごめんな?今朝も、朝練あるんだ。悪いけど先に行くよ」
隆哉の返事を見て、夏樹はまた返信した。
「分かった。じゃあ、学校で」
携帯をベッドの上に放り投げると、夏樹はまた枕に頭を預けて横になった。
今日、学校で隆哉に会ったらちゃんと訊いてみようかと思った。
悶々と、1人で考えていたって何も分かりはしない。隆哉に確かめて、全てが自分の取り越し苦労だったと笑い飛ばしてしまいたかった。
「大丈夫…」
手を伸ばし、携帯を握り締めて、夏樹は呟いた。
「大丈夫だよ。リキは違う…。リキは俺を裏切ったりしない。だって…、あんなに、呆れるぐらい何度も“好き”って言ってくれたんだもん…」
そう言って夏樹が目を閉じた時、階下から“早く起きなさい”と呼ぶ、母親の声が聞こえた。溜息をついて起き上がると夏樹はパジャマを脱いだ。
制服に着替えて階下に降りると、鞄を玄関に置いて洗面所へ入った。
歯を磨く為に鏡を前にして、夏樹はまた溜め息をついた。
見事に立ち上がったハリネズミのような髪。両手を濡らして何度も撫でてみたが、幾らやっても少しも変わらなかった。
夏樹は諦めて歯ブラシを取ると、歯を磨いて顔を洗った。
仕事に行く母の朝は忙しい。グズグズしていると怒られるので、夏樹はさっさと朝食を済ませて家を出た。
勿論、今朝は待っていても隆哉は来てくれないと分かっている。
足早に歩を進めると、例のコンビニエンスストアの先で丁度マンションから出て来た小高に出会った。
「基…?」
今朝は朝練があったのではなかったのか。
夏樹が驚いて声を掛けると、小高は何の屈託もなく爽やかな笑顔を見せた。
「あ、おはようっ、夏樹」
「おはよ…。今日、朝練は?」
「え?今日は無いよ。なんで?」
きょとんとした顔で訊かれ、夏樹は戸惑った。
「だって…、リキが…」
「リキ?リキ、朝練行ったの?ふうん…、じゃ、自主練じゃないかな?」
「そ…、そうなんだ…」
ショックを受けて、夏樹はそう言ったきり黙り込んでしまった。
(嘘、ついたの…?リキ、俺に嘘ついたの…?)
嘘をついてまで、自分の顔を見たくなかったのだろうか。さっき、必死で自分に言い聞かせた筈の言葉が酷く空しく思えた。
だが、そんな夏樹の心境を知らない小高は、感心するように言った。
「でも、それぐらいやんないと強くなれないのかもなぁ…。俺なんて、全然駄目だ。チビだってことは剣道の場合、あんまり関係ないって思いたいけど、やっぱ、リキみたいなヤツ見ると、そうじゃないって思い知らされるよ…」
「そんなことないよ…。基のこと、凄いって、リキだって言ってたじゃん」
話をする元気も失われていたが、精一杯の虚勢を張って夏樹は小高に答えた。
すると、小高はフッと笑った。
「あんなの、お世辞だよ。リキは優しいからさ…」
「基…」
いつも元気な所しか見た事が無かっただけに、こんな寂しげな小高の表情は夏樹をドキリとさせた。
「いいよな、リキは。優しくて、カッコ良くて、剣道もスゲエ強い。俺…、凄く憧れる」
そう言った小高の横顔から、夏樹は目が離せなかった。