涙の後で


-8-

入学式の朝は、さすがに慶も起こされずに起きた。
朝食の後で部屋に戻り、俺たちは真新しい制服に着替えた。
俺が締め慣れないネクタイに苦戦していると、慶が寄って来て黙って結んでくれた。
「ありがと…。慣れてるんだな、戸田は…」
「ああ、中学もネクタイだったからな。高梁は学ランか?」
「うん、そうなんだ。だから、良く分からなくて」
「ほら、出来た。こんなのは慣れだから、すぐに覚えるよ」
「うん。ありがと」
思わぬ接近に、頬の火照りを感じて俺は焦った。
だが、慶はすぐに自分の机の方へ行ってしまい、気にする様子もなかった。
指定の時間が来て、俺たち新入生はぞろぞろと寮の外へ出た。
広場に引率の先生が来ていて、全員揃ったのを確認すると俺たちを校舎まで連れて行った。
昇降口の前にクラス分けの表が貼り出されていて、其々に自分の名前を見つけるとそのクラスの下駄箱へ散って行った。
俺と慶は同じC組だった。
だが、それは予想出来ていた事で、同室の者同士は大抵が同じクラスになっていたのだ。
俺たちは連れ立ってC組の教室へ行き自分の名前が貼ってある机を見つけて座った。
親達は直接講堂へ行く事になっているので此処には来ていない。みんな、クラスメイトの顔を確かめるようにして周りを見回しては、知った顔に話し掛けたりしていた。
気になっていたのだが、楠田は同じクラスではなかった。
慶はどうか知らなかったが、それを知って俺はちょっとホッとした。
同じクラスになんかなったら、彼はきっと慶に関わろうとするだろう。いや、同じ学校の同じ寮にいるのだから、クラスが違っても関係ないのかも知れないが、それでも、ずっと同じ教室で顔を突き合わせているよりはいいような気がした。
そう思った後で、その感情の理不尽さに気づき、俺はハッとなった。
慶はただのルームメイトというだけで、俺たちの間にそれ以上の何がある訳でもない。それなのに、俺が彼と他の人間の接触を気にする必要も、ましてや嫌がる必要も権利も無い。
昨日、ほんの少し彼に近づけたような気がして、俺はいい気になっていたのだろうか。
そう考えると、急に恥ずかしくなった。
(まだ、友達にさえなってないのに……)
こっそりと苦笑いした俺の肩を、後ろの席の生徒が叩いた。
振り向くと、坊主頭でビックリするほど身体の大きな生徒がニコニコ笑って俺を見ていた。
名前は知らなかったが、彼のことは見覚えていた。これだけ大きな生徒なら、何処にいても目立つ。寮でも何度か彼を見掛けていた。
「高梁君だよね?俺、坂上。坂上真也、よろしく」
「あ…、よろしく…」
相手の名前を初めて知ったが、またもや相手は俺の名前を知っていた。なんだか、大勢に監視されているような気分になり、俺はちょっと怖くなった。
「あ、ごめん。いきなり…」
坂上は俺の戸惑いを感じたのか、苦笑すると言った。
「高梁君、S市から来たんだろ?俺もなんだ」
「え?そうなの?」
俺は驚いたが、彼とは同じ中学ではなかった筈だった。同じ学校に彼が居たら、知らない訳が無い。
そう思って見ていると、案の定、彼は言った。
「うん。俺は第二中だったんだけどさ」
「そか、第二中なんだ」
第二中は俺が通っていた中学からは学区にして2つほど離れていた。
「うん。…で、俺、Y町の道場へ通っててさ。高梁君、駅前の学習塾へ通ってたろ?俺、君のこと駅で何度も見かけてたから、寮で姿を見た時に“あっ”と思ってさ、つい名前とかチェックしちゃって…」
俺は彼の話を聞いて納得した。
前から顔を知っていた人間に、こんな閉鎖的な場所で出合ったら、つい気になってしまうのは当たり前だろう。
「そうなんだ。そう言えば、塾の近くに柔道場があったね。じゃあ、坂上君はスポーツ特待生?」
「うん。まあ、一応…」
坂上は大きな身体に似合わない、はにかんだ笑みを見せると、ボリボリと頭を掻いた。
私立で裕福な生徒を多く受け入れているだけに寄付金も多いのか、スポーツの優れた生徒を募り、特待生として学費を免除しているのは知っていた。
だから、この学校は各運動部に対する設備が整っているのだ。
「世話になってた道場の先生が、この学校の柔道部の顧問と親しくてね、俺に入学を勧めてくれたんだ。試験も学費も免除だって言うし、親も喜んでたから決めたんだ」
「そうか…」
「うん。道場には週末しか通えなくなるんだけど、でも、ここの稽古もかなり充実してるらしいしね。…まあ、男ばっかりの生活ってのは、ちょっとげんなりだけどさ」
そう言って笑った坂上に釣られて、俺も唇を綻ばせた。
ずっと、自分の知らない世界に迷い込んでしまったような感覚を覚えていただけに、やっとまともな人間に会えたような気がして俺は少しホッとした。
そして、坂上に対して急に親近感を覚えた。
「はい、静かに」
教壇に担任の先生が立って声を掛けた。
俺は、坂上にもう一度笑い掛けると、姿勢を直して前を向いた。
クラス担任は40代位の余り体格の良くない先生だった。担当は社会科だそうで、穏やかで落ち着いた感じがした。
男子校だからなのか、今までに女の先生は一人も見かけなかった。多分、ここには男の先生しか居ないのだろう。
俺たちの寮の後ろに先生用の宿舎があったし、多分、下の街に住まずにここに住んでいる先生も居るのだろう。
後で聞いたところに寄ると、独身の先生は全員がこの宿舎で寝起きしているらしかった。
担任の先生の挨拶が済んで、講堂へ移動することになり、俺たちは立ち上がった。
出席番号順に外の廊下へ並ぶと、先頭に立った先生に付いて歩き出した。
講堂が近付くと、忽ち、俺は緊張し始めた。
勿論、入学式の所為もあったが、その後で正孝さんに会わなければならないのかと思うと、身体が硬くなってくる気がしたのだ。
クラスごとに整列して講堂へ入って行くと、もう在校生や先生方、そして新入生の両親達も皆揃っていた。
皆が着席している間を進み、用意されていた席に順番に座る。
俺は気になっていたが、敢えて母と正孝さんのことを探さなかった。



入学式は滞りなく進んで、学校長やPTA会長、そして生徒会長などの歓迎の挨拶の後、各クラスの担任や、教科の先生などの紹介があった。
やはり思っていた通り、女の先生は一人もいなかった。
校医でさえ若い男の先生で、どうやら彼は学校の寮に寝起きしているらしい。それは勿論、寮生の為だろうと思った。
入学式が終わり、新入生は外へ出て親と対面したり、一緒に写真を撮ったりしていた。
俺は、そんな姿を眺めながら桜の下を講堂の裏の方へ歩いて行った。
逃げようと思った訳ではなかったが、やはり母と正孝さんに会うのは怖かったのだ。
だが、後ろから声を掛けられて、俺は足を止めた。
「千冬くんッ」
覚悟を決めて振り向くと、正孝さんが一人で立っていた。
「あ……。あ、あの、来てくれてありがとう」
慌てて繕うように笑みを浮かべ、俺は言った。
入学式の為に新調してくれたのか、見慣れないスーツ姿で、正孝さんはいつもの優しい笑顔で頷いた。
そして、俺の前に立つと、手を上げて俺のネクタイに触った。
「おめでとう。ちゃんと結べてるね。心配してたけど、凄く似合うよ」
「ありがと…。ホントは上手く出来なくて同室のヤツに結んでもらったんだ」
俺が告白すると、正孝さんは笑いながら頷いた。
「そうか。同室の子と仲良くなれたんだね?良かった…」
「う、うん…」
本当は慶と仲良くなったとは言い難い。でも、敢えて否定することも無いと思い、俺は頷いた。
「あの…、母さんは?」
母の姿が見えないことを訝って、俺は周りを見回した。
すると、正孝さんは急に気まずそうな顔になった。
「うん、ごめん。千夏さん、今日、急に出張が決まってね。来たがってたんだけど、どうしても他の人じゃ駄目だからって」
「そうなんだ…。いいよ、気にしないで。母さんが忙しいのは何時もの事だし。それに、……正孝さんが来てくれたし」
躊躇いながら俺が言うと、正孝さんの眉がまた曇った。
「あの、千冬君……。今更だけど…本当に、俺と千夏さんが結婚したこと、嫌じゃなかったのか?」
「え……?」
本当に、今更、何故改まってそんなことを訊くのだろう。
必死で誤魔化そうとしていたが、やはり、俺の態度がおかしかったのだろうか。
そう思うと、なんと答えていいのか分からなくなり、俺は俯いてしまった。
「そ、そんなこと無いよ……」
ぼそぼそと答えると、頭の上で、正孝さんの済まなそうな声が言った。
「悪かったと思ってる…」
言葉の後で、正孝さんの手が肩の上に乗った。
ドキリとして、一瞬身体が震えるのが分かった。
すると、切なそうな正孝さんの声がまた聞こえた。
「本当に、済まなかったと思ってる。……でも、君の気持ちを知っていても、それでも俺は、千夏さんを諦められなかったんだ…」

え……?

俺はギクリとして顔を上げた。
「な、なに……?何のこと?」
震える声で、俺は言った。

今、なんて言った?
俺の気持ちを知ってたって?
俺の気持ちを……?

急に息が上がり、耳の後ろがギュッと硬くなる。
ドクドクという、血管を血が流れる音が気持ち悪いほど大きく聞こえた。
「済まない…。でも、俺は本当に君を可愛いと思ってる。だから、君に好かれて嫌な気持ちなんかしなかったよ。……けど、それは恋愛感情じゃなかった」
済まなそうにそう言う正孝さんの顔を凝視しながら、俺は息を吸えなくなっていた。

知っていたのだ。
彼は、俺の恋心を知っていながら、母と結婚したのだ。

「本当の親子になるのは無理かも知れない。でも、せめて、千夏さんのパートナーとして、俺を認めて欲しい」
不意に、涙が瞳から溢れた。
酷すぎる……。
例え知っていたとしても、それを俺に教えて欲しくなかった。
何も言えずに、俺はくるりと背中を向けると逃げるように走り出した。
正孝さんの声が背中で聞こえたが、勿論振り返らなかった。
だが、俺の足はすぐに止まってしまった。
桜の木の向こう側へ出ようとした所で誰かにぶつかったのだ。
衝撃の後に、グッと抱き留められた。
吃驚して見上げると、それは慶だった。
俺の顔を見て慶は苦笑じみた表情を浮かべた。
そして、言った。
「不毛なことやってんだな…、おまえも…」

ショックで言葉も出なかった。

正孝さんとの話を聞かれただけじゃない。
俺の気持ちを知られただけじゃない。
慶は、俺の全てを否定したのだ。

衝撃で止まった涙が、またボロボロと頬を伝った。
慶を押し退けると、俺はまた逃げる為に走り出した。