涙の後で
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村内が現れたのは午後4時を過ぎた頃だった。
クマを枕にしてベッドの上に寝転んで本を読んでいたが、俺は彼の姿を見ると起き上がって座り直した。
村内は複雑な表情を浮かべていた。
俺は思わず唾を飲み込むと、近づいて来た村内を見上げた。
ベッドの上に座り、村内はすぐに俺の手を取った。
「……戸田先生が、お袋の医療費は全部面倒見てくれるって言ってくれた…。それから、俺の借金も肩代わりしてくれるって……」
「……そう」
「借金はお袋と関係ないし、俺がちゃんと働いて返すって言ったんだけど…、苦労させたお詫びだって……」
「うん…」
頷いた俺をじっと見つめる村内の眼に、涙が溜まっているのが分かった。
そして、握っていた俺の手に村内は唇を押し付けた。
「ちーちゃん、俺……、金なんか要らない。…ちゃんと自分で全部返すよ。お袋のこともちゃんと俺が面倒見る…。金なんか要らないから…、ちーちゃんと居たい…。ちーちゃんと居たいんだ……」
思わず俺は、腕を回して村内を抱きしめていた。
「うん……、ごめんね?ごめん……」
「やだよ、ちーちゃん…。知ってて約束させるなんて、酷いよ……」
「うん…。怒っていいよ。俺の事、恨んでもいい…」
俺が答えると、村内は首を振った。
その姿を見て、俺の決意は忽ち揺らいでしまった。
本当にこの手を離していいのか、後悔しないのか、分からなくなった。
「一緒に暮らしてもいいよ。俺はそれでもいい…。本当に村内さんが望むなら、俺はそうするよ…」
宥める為に言ったのではなかった。
慶や戸田院長は不快に思うだろう。俺のことを軽蔑するだろう。だが、誰一人幸せに出来ない俺が、もしかしたら村内の事だけは不幸にせずに済むのかも知れない。
そう思ったら、俺は彼の為に生きてもいいと思えたのだ。
「ほんと……?」
驚いて顔を上げた村内に俺は頷いた。
「うん…。俺なんかでいいなら……」
「ちーちゃん……」
村内は俺の身体をぎゅっと抱きしめ、肩に顔を埋めた。
もう2度と、慶とも戸田家とも関わらないと俺が決意出来れば、村内の望みを叶えることは出来る筈だ。
(もう2度と、慶とは会わないと俺が……)
考えただけで、胸が苦しくなった。
だが、そう決めなければ、村内とは暮らせない。
慶との決別を考え、じわっと涙が溢れそうになった時、肩の上で村内が呟いた。
「あれが…、あそこに居たのが、弟なんだね……?」
ハッとして、俺は村内の方を見た。すると、顔を動かして彼も俺を見た。
「カッコいいよね…。お父さんにそっくりで、凄く男前だ……」
「う、うん…」
「お金では苦労してないだろうけど…。弟は、幸せだったのかな……?」
俺の身体を離し、村内は正面から目線を合わせた。
「……そうだね。小さい頃は、寂しい思いもしたみたいだけど、今は幸せだと思うよ。育ててくれたお母さんも、優しくていい人だし、血は繋がってないけど、可愛い妹もいるんだ…」
それを聞くと、村内はホッとしたような顔をして笑った。
「そうか…、妹…。良かった……」
苦労したのは自分だけだったと知り、村内は心から安心したようだった。
こんなに優しい兄を、俺は慶に憎ませてしまったのだ。その罪は本当に重い。
「ちーちゃん…、好きなの?」
躊躇いがちに訊いたその言葉は、慶のことを言ったのだとすぐに分かった。そして、俺は嘘をつくのは止めるべきだと思った。
正直に答えて、それでも村内が俺と暮らしたいと思うなら、そうしようと決めた。
「うん…、ずっと…。高1の時から……」
俺の答えを聞いても、村内は表情を変えなかった。
「気持ち…、伝えた…?」
そう訊かれて、俺は首を振った。
「ううん。言わないよ、一生…」
今度は少し眉を寄せ、村内は訊いた。
「どうして……?」
「……慶は…、親友なんだ…。俺の事、凄く大事に思ってくれてる。親友として、誰よりも近くに居てくれる。……だから俺は、裏切らない。そんな慶の気持ちを大切にしたいから…」
「ちーちゃん……」
村内の腕がまた俺の身体に回された。そして、優しく抱きしめてくれた。
「キスしていい…?」
「うん…」
頷くと、村内は俺の頬を包んでキスをした。
それは、深くて、優しいキスだった。
「傍に居てね…?」
また抱きしめて村内は言った。
「うん…」
頷き、俺は彼の背中をゆっくりと撫でた。
村内と会った後で、慶の顔を見るのは辛かった。
何も知らずにいる慶に、平気な顔をして会わなければならないことが辛くて堪らなかった。
だが、何も言うことは出来ない。
俺はクマを抱きしめたまま、じっと考え込んでいた。
「すっかり仲良しだな」
病室に入って来て、慶が笑いながら言った。
「うん…」
俺が見上げると、慶はベッドに腰を下ろして、またクマの頭をぽんぽんと叩いた。
「千冬だから可愛いけどな、男がクマを抱えてるってのは本当なら不気味だよな」
「でも、拓馬さんは似合ってたよ。看護師さんの間でも噂になってる」
「へえ…?」
「イケメンは何やっても似合うんだよ。ほら、慶も…」
押し付けると、慶はクマを抱えて苦笑した。
「抱き心地いいな…」
「そうだろ?拓馬さんが添い寝用に買ってくれたのも分かるよ」
「マジで抱いて寝てんのか?まあ、抱き枕だと思えば……」
言いながら、慶はクマを抱いて寝転がった。
「悪くないか…」
こんな慶の姿を見るとは思わず、俺はくすくす笑った。
案外、可愛らしい。クマの効果はクールな慶にも働いているようだった。
苦笑しながら起き上がると、慶はクマを俺に返した。
「やっぱり、千冬が抱いていた方がクマも嬉しそうだ」
「そんな事ないよ…」
「千冬…?」
「うん?」
何故か心配そうな眼をした慶を見て俺は眉を寄せた。
「退院したら、また俺を避けたりしないよな?」
「え…?」
じっと見つめられて俺は怯んだ。
村内の為に、関りを断つかも知れないと考えているのを、まさか察したのだろうか。
「なんで、そんなこと…」
俺が口籠ると、慶は俺の顔を見つめたままで言った。
「ここに居る内は、俺が会いに来れば会えるけど、退院したらまた避けられるんじゃないかって……。千冬が俺を避けた原因は分からないままだし、不安なんだよ」
「慶……」
避けた訳じゃないと言った俺の言葉を、やはり慶は信じていなかったのだ。そして、こんなにも不安がっている。
クールに見えても、慶は本当は寂しがり屋なのだろうか。
そして、似ているのは声だけだと思った、村内と慶の似た部分を見つけたような気がした。
「避けたりしないよ。今までも、避けてた訳じゃないって言ったろ?」
俺が答えると、慶は暫くの間俺の顔を見ていたが、やがて頷いた。
「なら、いいんだ」
翌朝、また戸田院長から電話があった。
昨夜の内に電話があり、村内は、昼間聞いた院長の申し出を有難く受けると言ったそうだ。
今の仕事は辞め、まともな職を探して、母の面倒を見ながら暮らすと言ったらしい。
そして、自分の事は慶には言わないで欲しいとも言ったそうだ。
「え…?慶には黙ってろと…?」
「ああ…。自分の事はわざわざ伝えなければ、慶には分からないだろうと…。今更名乗る気もないし、慶にとって自分の存在が必要とも思えないと……」
「そうですか……」
「顔は合わせたが、確かに慶は、侯君を兄だとは気づいていないだろう。何れは話すつもりだったが、母親の事だけを知らせて兄が居ることは知らせない方がいいのかも知れないね…」
村内は、きっと、慶の事だけではなく、俺のことも気遣ってくれたのだろう。俺が寝た相手が、自分の兄だと知らせてはいけないと思ったのだ。
そして、”傍に居て”と、言っておきながら、村内はきっともう、俺とも会うつもりはないのだと分かった。
昨日のあのキスが、最後のキスだったのだ。
最後のキスをして俺と別れることを決めたのだ。
そう思うと、胸が締め付けられるようだった。
あんなにも強く、俺と暮らすことを願っていたのに、俺の為を思って諦めてくれたのだ。俺と慶のことを思って、自分一人が悪者になってくれた。
その優しさに、俺は涙が出た。
「私は出来るだけのことをするよ。だから、千冬君はもう、心配しないで、自分の身体の事だけを考えなさい」
「はい……」
返事をして、俺は電話を切った。
「ごめんね…?村内さん…。約束守れなくて、ごめん……」
呟くと、涙が溢れた。
村内と過ごしたのは、ほんの短い間だった。
出会った時は、少し怖くて、関わるまいと思った。
だが、その優しさに触れる度、その孤独を知る度に、離れがたくなっていった。
俺の心の中に、深く入り込んでいったのだ。
その村内に、また俺は何もしてやれないまま、手を離さなければならない。傍に居ると約束したのに、結局は何一つ、俺は与えることが出来なかった。
「幸せになって……?俺なんか居なくても、きっと幸せになって……」
俺ににはもう、そう強く願う以外、何も出来なかった。