涙の後で
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夜になってから来ると思った慶が、朝の内に顔を出した。
コンビニに出勤する前なのだと言い、来る途中で買って来たらしいプリンと、それから自分の書棚から選んで来てくれたらしい本を2冊持って来てくれた。
「出勤前で時間無いのに、ごめんね。ありがとう…」
俺が礼を言うと、慶は持って来たプリンを冷蔵庫に仕舞いながら首を振った。
「いや、ちょっと言っておきたいことが有って…」
「なに…?」
俺が訊くと、慶は苦笑しながら腰を下ろした。
「昨夜、ちょっと用事があって実家に電話したんだ、そしたら珍しく親父が出て、千冬が怪我したことを話したら、見舞いに来るって言うから…」
「えッ?そんな…、悪いよ。気を遣わないように言って?」
「いや、俺も、千冬だって却って迷惑だろって言ったんだけどな、何度も瑠衣子を見舞ってもらってるのに、放って置けないって利かなくて。まあ、今日来るとは思わないけど、言っておいた方がいいと思って…」
「そんな…。心配かけて申し訳ない…」
俺が言うと、慶はまた苦笑した。
「仕方ないよ。親父は千冬が大好きだからな…。まあ、迷惑だろうが見舞わせてやってくれ」
そう言って、慶は仕事に行くからと帰って行った。
朝食の後で、母がやって来たが、正孝さんは仕事があるので昨夜の内に帰ったらしい。
他は何ともないし、動かないのは左腕だけなので、付きっきりでいる必要はないと言ったが、母は取り敢えず、2,3日はこちらに居てくれるとの事だった。
「たまには、母親らしいことさせてよね」
そう言った母に、俺も頷いた。
「千冬の部屋、綺麗にしてるから何もすることなかったわ。て言うか、元々私よりちゃんと出来るもんね、あんた」
そう言って笑った母に、事実を告げられないことで俺は罪悪感を覚えていた。
これからのことは何も考えていなかったが、もしかすると俺は、母に何も孝行出来ずに終わるのかも知れない。
たった一人で俺を育ててくれた母に、結婚することも、孫を見せてやることも出来ず、心配を掛け、ただ笑顔を奪ってしまうのかも知れない。
それを思うと、せめて本当のことを母に告げるべきなのだと思えた。
今は無理でも、俺は母にきちんと話をしようと心に誓った。
「ねえ、千冬…、こんな話、今するのはどうかと思ったんだけど、あんたと顔見て話せるのって中々ないから…」
はっきりした性格の母が口籠るのは珍しいことだった。俺が何事かと緊張すると、母がまた口を開いた。
「あのね…、今更、兄弟が出来たら恥ずかしい?」
「え…?」
驚いたが、俺はすぐに言った。
「恥ずかしい訳ないだろ?嬉しいよ。…まさか、出来たの?」
母はもうすぐ40歳だが、産めない歳ではない。考えたことも無かったが、俺に兄弟が出来る可能性は、勿論、あるのだ。
「まだ、病院には行ってないの。でも、そうかも知れない…」
「ほんと?凄い…。あ、正孝さんには?言ったの?」
俺は少々興奮して言った。一生一人っ子だと思っていたのに、兄弟が出来るかも知れないなんて驚きだった。
「うん…、まだ言ってないの。病院で確かめてからと思って。期待させて違ってたら、がっかりさせるでしょ?」
「うん、そうだね。その方がいいよ。…あ、じゃあ、この病院で診てもらったら?ここ、産婦人科もあるよね?」
俺が言うと、母は笑った。
「まさか、あんたの看病に来てるのに、おかしいでしょ。いいわよ、帰ってから向こうで診てもらうから」
「いいじゃない。早い方がいいよ。ここに居たって大してやることないんだから、午後から予約出来るか、訊いてみなよ」
躊躇っていたが、点滴を替えに来た看護師に訊いてみると、予約出来るということだったので、母は産婦人科に向かった。
辛いことが重なっていたが、母が妊娠したかも知れないという出来事が、いっぺんに俺の心を温かくしていた。
弟か妹が出来るかも知れない。母たちにも自分にも幸せが訪れるのだ。
早く結果が知りたくて、俺は何だかそわそわした。
午後から、診察のために母が病室を出て行くと、入れ替わるようにして村内が訪れた。
俺が美味しいと言ったケーキ屋の箱を持っていたが、それをキャビネットの上に置くと、またベッドの横に膝を突いて、黙って俺の膝に頬を載せた。
「また、そんな顔する…。泣いたら怒るよ?」
笑いながら俺が言うと、顔を上げて俺を見上げた。
「ちーちゃん……、昨日の…、あの人、ちーちゃんの彼氏…?」
勿論それは、慶の事だろう。
俺はすぐに首を振った。
「違うよ。言ったろ?今は彼氏は居ないって…」
「でも…」
村内が言いかけた時、扉にノックの音がして、彼は慌てて立ち上がった。
俺が返事をすると、入って来たのは慶の父親だった。
「と、戸田さん…」
来るのは今日ではないだろうと慶が言っていたので、安心していた。まさか、ここで院長と村内が出会ってしまうなんて思わなかったのだ。
「わ、わざわざ済みません。お忙しいのに…」
俺が慌てると、院長は近づいて来て言った。
「何言ってる。いつもいつも、君は瑠衣子を見舞ってくれてるのに、来なかったら妻にも瑠衣子にも怒られるよ」
「そんな…」
「実はここには知り合いの医師が居てね、後で千冬君の怪我について聞いて来ようと思ってたんだ。でも、取り敢えずは顔を見ようと思って…」
そこまで言うと、院長は笑みを見せた。
「顔色は悪くないね。良かった…」
「はい、大丈夫です。……ありがとうございます」
何時ものチョコレートと花を受け取り、俺は礼を言った。
すると、所在無さ気にしていた村内が、少し離れた所から俺を見て言った。
「ちーちゃ…、あ…、千冬君、それじゃ俺…」
すると、何かに気づいたように、院長が振り返って村内を見た。
「……君は、千冬君の友達?」
「あ、はい…。村内です」
村内が答えると、院長は眉を寄せた。
「村内…くん…?下の名前は?」
訊かれて、村内は怪訝そうな顔になったが、素直に答えた。
「侯です。村内侯」
突然、院長の顔が強張るのが分かった。
「きみ…、お母さんの名前はなんて?」
「え…?」
さすがに驚いたらしく、村内はすぐには答えなかった。俺の顔と、院長の顔を交互に見、躊躇っていたが、やがて口を開いた。
「志津恵です。村内志津恵…」
その名を聞いて、院長が息を呑むのが分かった。
そして俺は、やはり村内と慶の母親は同じ人なのだと確信したのだ。
「…い、いや、済まない…。同じ苗字の知り合いがいるものだから…」
院長の説明に、村内は頷いた。
「じゃあ、俺行くね?明日また来るから」
そう言った村内に俺は頷いた。
そして、彼が出て行くのを見送っていた院長の手をそっと握った。
ハッとして振り返り、院長が俺を見た。
そして、俺の表情で気づいたのだろう。
「……千冬君…、知っていたのか?」
眼を見張って、院長は言った。
俺が頷くと、そこにあった椅子に、崩れる様に腰を下ろした。
「そうか…。でも、どうして?彼とは何処で知り合ったんだ?」
「……最初は、あの”声”でした」
俺が言うと、やはり院長もそれで気づいたのだろう、静かに頷いた。
「でも、勿論、すぐに慶との繋がりを考えた訳じゃありません。他人の空似だろうと思っただけでした。……でも、何度か会う機会が有って、少しずつ彼の生い立ちを聞くと、幾つかが慶から聞いていたことと符合したんです」
困惑の表情を浮かべたままの院長を見て、俺は話を続けた。
「幼い頃、母親が妊娠してお腹が大きくなったけど、病院へ行って帰って来た時は、赤ん坊は連れずに一人で戻って来たこと。その前に、怖いお爺さんが来て、母親に何か話をしていった。大人になってから、それが赤ん坊の祖父で、母親に息子と手を切るように言いに来たのだと気づいたんだって言ってました。そして……、引き取られた弟の父親は病院の息子らしいと…」
「……そうか…」
辛そうに首を振り、院長は下を向いた。
「加えてあの声…、確信はなかったけど、多分慶の兄ではないかと思いました」
頷き、院長は顔を上げた。
「彼のこと、慶には?」
訊かれて俺は首を振った。
「言ってません。……昨日まで、慶は存在も知らなかった。俺も会わせる気も無かったし、こんなことがなければ、きっとお互いに顔も知らないままだったでしょう」
俺の言葉に、院長は静かに頷いた。
「だが、君が彼と出会ったことには運命的なものを感じる…。侯君がこの町に居たってことも、偶然だと片付けてしまえない気がする。きっと、慶も兄の存在を知るべきだということなのだろう」
「でも…、本当に知らせるべきなんでしょうか?」
疑うように俺が言うと、院長は俺を見た。
「もう慶も大人だ。そろそろ、本当のことを知ってもいい筈だよ。それで…、また私は慶に嫌われるだろうがね」
「戸田さん…」
「志津恵は……、慶の母親は元気なんだろうか?」
訊かれて、俺は躊躇ったが、本当のことを話すことにした。
村内の母親がアルコール中毒で病院に居ること、そのために村内は施設を出入りして育ち、今も不本意な仕事をして母親の面倒を見ていること。
全てを聞き終わると、院長は額に手を当てて辛そうに首を振った。
「そうか…。そんなことになっていたか……」
多分、村内志津恵が酒に溺れたことを、自分の所為だと感じたのだろう。院長は、暫く顔を上げなかった。
「……あの頃、私は病院を継ぐのを躊躇っていた。研究の方が面白くて、海外に勉強に行きたいと思っていたが、父は頑固で私の気持ちも理解しようとしてくれず、随分、諍いもあってね、自棄になっていたんだよ」
俺に話す必要はないのに、院長は心の中を吐き出したかったのか、話を続けた。
「そんな私を慰めようと、同僚がよく呑みに誘ってくれてね。志津恵は彼の行きつけの店のホステスで、何度か席についてくれたが、別に好きだった訳でもなかったし、向こうだって客の一人だとしか考えていなかったろうと思う。まあ、本当の所は何も分からないが……。あの日、酷く酔ってね、気が付いたら志津恵とホテルの部屋に居た。それ1回きりの事だったが、志津恵は妊娠した……」
”軽蔑するだろ?”と院長は言ったが、俺は首を振った。
「私はそれを知った時、正直、困惑した。彼女を愛していた訳じゃなかったし、勿論、結婚なんて考えていなかった。彼女に子供がいることも知っていたしね…。だが、妊娠した子供に対して責任を取るべきだと思ったし、父親には彼女を妻に迎えると言った。だが、父は猛反対してね……。志津恵には自分が言い含めるから、お前はもう2度と会うんじゃないって…」
慶の祖父にしてみれば、大事な跡取り息子にそんな嫁は迎えられないと思ったのだろう。二人の間に愛があるならまだしも、ただ責任を取るためだけの結婚は認められなかったのかも知れない。
「私は抵抗したが、父は聞き入れなかった。だが、子供だけは殺さないでくれと頼んだよ。子供には何の罪もないからね。……父も渋々承知して、子供が生まれるまで志津恵の医療費と生活はすべて面倒見る事と、生まれた子供を引き取る事を約束してくれた」
院長は苦く笑うと、俺を見た。
「志津恵は最初、子供を手放すことを躊躇っていた。妊娠を私に言うつもりもなかったようだったが、子供を殺したくないと、中絶はしたくなかったらしい。だが、自分一人で二人の子供を育てる自信も無かったんだろう。最後にはうんと言ってくれた。……こんな父親だ、慶が嫌っても仕方ないだろう?」
また自嘲気味に笑った彼に俺は何も言えなかった。
「慶を引き取ってすぐ、私は志津恵に会いに行った。だが、志津恵は姿を消していた。探したが、結局行方は分からなかったよ」
そして、村内と母親はこの町に住むようになったのだろうか。その辺りの事情は俺も何も聞いてはいなかった。
「……家に引き取られた慶を、最初はどうしていいか分からなかった。乳飲み子なんて触ったことも無かったからね。だが、毎日顔を見ている内に、段々に愛しく思うようになった。父の反対を振り切って、海外に行こうと思っていたが、慶の傍に居るために私は病院を継ぐ決意をした。忙しくて、傍に居てやれる時間も少なかったから、随分寂しかっただろうと思う。だが、慶の為にしてやれることは、全てしてやりたいと思うんだ…」
慶の母親は、戸田院長を愛していたのだろうか。
本当は、愛していたから、失った悲しみで酒に溺れてしまったのだろうか。
知ることは出来ないが、院長も、もしかしたらそう感じていたのかも知れない。だからこそ、彼女の現在を知って、心を痛めているのだろう。
「千冬君、村内君に連絡が取れるかい?」
「いえ…。連絡先を訊いてなくて…、アパートの場所は分かるんですが…」
「そうか…。明日も来ると言っていたが、連絡先を訊いておいてくれないかな?」
「はい。分かりました」
俺が答えると、院長は立ち上がった。
「母親の事と、侯君のことは私から話すから、慶には黙っていてくれるかな?」
「はい…」
俺が答えると、院長は頷いた。
「じゃあ、私は知り合いの医者に会ってから帰るよ。……これ、私の携帯の番号だから、侯君の連絡先が分かったら、ここへ電話してくれる?」
「はい、分かりました」
俺が答えると、院長はもう1度頷いて部屋を出て行った。